身体の小さな違和感を無視しない
家族の病気を振り返って思うこと
先日、ある方の投稿で、
「がんは自分の細胞」
という言葉を目にしました。
その言葉が心に残り、翌朝、私は自分の家族の病気について考えていました。
私の父は、私が3歳の時に32歳で亡くなっています。病気は胃がんでした。
母に改めて聞いたところ、父は若く、がんの進行も早かったため、見つかった時には手遅れの状態だったそうです。手術は受けず、当時としては新しい治療を受けたと聞いています。
祖父は肺がんでした。
入院して手術を受けましたが、その後、身体が回復しないまま亡くなりました。
祖母はがんではなく、最終的には脳梗塞でした。脳の血管が次々と詰まっていくような経過だったと記憶しています。
これまで家族の病歴は知っていたつもりでしたが、詳しいことを母に尋ねたことはあまりありませんでした。
今になって振り返ると、父や祖父母の病気は、私が身体や回復について考えるようになった一つの原点なのかもしれません。
病気になった人の生き方を責めたいのではありません
これから書くことは、病気になった人の生き方や気持ちが間違っていた、という話ではありません。
「ネガティブに考えたから病気になった」
「前向きになれないから治らない」
と言いたいわけでもありません。
病気は、一つの原因だけで起こるものではありません。
体質、遺伝的な要因、感染、生活環境、加齢に伴う変化など、本人が自由に選べないものも関係します。
どれほど健康に気をつけ、丁寧に暮らしていても、病気になることはあります。
生まれつき病気のある人や、幼い頃に重い病気になる子どももいます。
そうした出来事まで、その人の気持ちや生活習慣だけで説明することはできません。
私には分からない領域があり、避けられない人生の流れもあるのかもしれないと思っています。
それでも、まだ大きな病気にはなっていない時に、心や身体が出している小さな違和感を無視しないことには、大きな意味があると私は考えています。
痛みは、身体だけに起きているのだろうか
整体をしていると、腰痛を長い間抱えている方に出会います。
最初は時々痛む程度だったものが、次第に治りにくくなり、動きも小さくなっていく。
痛みを避ける動作が増え、身体の一部へ負担が偏り、筋肉の緊張や関節の動き方も変わっていくことがあります。
長い年月の中では、椎間板や関節などに変化が生じ、椎間板ヘルニアや脊柱管狭窄症と診断される人もいます。
ただし、腰の組織の変化は、痛みを我慢したことだけで起こるわけではありません。加齢、遺伝的な傾向、生活上の負荷など、さまざまな要因が重なっています。
私が気になっているのは、その変化の医学的な原因だけではありません。
その人が腰痛を抱えていた年月に、どのような気持ちで暮らしていたのかということです。
もしかすると心の中には、
「本当はこれをしたくない」
「もう頑張りたくない」
「ここから逃げたい」
という気持ちがあったかもしれません。
もちろん、腰痛のある人が必ずそのような感情を抱えているわけではありません。
しかし、したくないことを続け、休みたい時にも休まず、自分の気持ちを長く抑えていたら、身体の使い方も変わってくるのではないでしょうか。
呼吸が浅くなる。
眠っても緊張が抜けない。
身体へ力を入れたまま過ごす。
疲れていることに気づかなくなる。
嫌だと思っている場所へ、毎日身体を運び続ける。
このようなことが長く重なれば、気持ちと身体の負担を完全に切り離して考えることは難しいと、私は感じています。
大きな病気の背景にも、強い心の負担があるのではないか
私は個人的には、病気と気持ちは、一般に考えられているよりも深く、直接的につながっているのではないかと思っています。
腰痛の背景に「何かをしたくない」という気持ちがあるとすれば、がんなどの大きな病気の背景には、
「自分には存在する価値がない」
「自分を許すことができない」
「私は幸せになってはいけない」
「すべて自分が悪い」
という、さらに深く、強い感情が隠れている場合もあるのではないか。
そうした心の状態が身体へ長く強い負担をかけ、何らかの形で病気と関係することもあるのではないか。
私は、そんなことを考えています。
ただし、これは医学的に証明された因果関係ではなく、私自身の仮説です。
また、私はがんの方を大勢施術してきたわけではありません。
これまでお会いした病気の方も、表面的には明るく、ネガティブな感情をほとんど見せない人が多かったように思います。
しかし、表に出していないことと、心の奥に何もないことは同じではありません。
人は、自分が何を我慢しているのか、自分でも分からなくなることがあります。
長く続いた生き方が当たり前になり、「つらい」「嫌だ」という感覚そのものを感じなくなることもあるのかもしれません。
だからといって、病気の人を見て、
「心に問題があったはずだ」
と決めつけることはできません。
本人にも分からないものを、外側にいる人が勝手に説明してよいとは思わないからです。
食事やお酒を変える前に、その奥にあるものを見る
病気の予防というと、
「たばこをやめる」
「お酒を控える」
「食事を整える」
「運動する」
といった生活習慣が挙げられます。
しかし私は、その行動のさらに手前に、気持ちがあるのではないかと思っています。
頑張った日の終わりに、ビールを飲みたくなる。
嫌なことがあった日に、いつもより高価な食事をしたくなる。
心に穴が開いたように感じて、満腹になっても食べ続ける。
眠る前にお酒を飲まなければ、一日を終えられない。
そこにあるのは、単なる意志の弱さではないのかもしれません。
食べることや飲むことで、自分を慰めたり、不足しているものを埋めたり、張り詰めた身体を緩めたりしていることもあります。
その人から食べ物やお酒だけを取り上げても、心の穴が残っていれば、別の何かで埋めたくなる可能性があります。
反対に、自分にとって気持ちのよい生活へ少しずつ戻っていくと、それまで必要だった過食や飲酒が、自然に減っていくこともあるのではないでしょうか。
禁止して自分を管理するというよりも、必要以上に食べたり飲んだりしなくてもよい心と身体へ戻っていく。
私は、そのような整い方があると思っています。
小さな違和感は、まだ変えられる時に届く
身体の声が小さいうちに、立ち止まってみる。
大きな病気になる前に、必ず分かりやすい予兆があるとは限りません。
無症状のまま進む病気もあるため、違和感だけに頼らず、必要な健診や検査を受けることも大切です。
それでも、病名の付く症状とは別に、日常の中で感じる小さな声があります。
「この働き方を続けるのは苦しい」
「この人といると、身体が縮こまる」
「本当は休みたい」
「もう無理をしたくない」
「なぜか分からないけれど、ここから離れたい」
「以前は好きだったのに、今は楽しくない」
このような感覚は、病気を診断するものではありません。
しかし、今の生き方が自分に合わなくなっていることを知らせる手がかりにはなると思います。
身体が小さな声で知らせているうちなら、仕事の仕方を変えたり、休む時間を増やしたり、人との距離を見直したりできます。
一度に人生を大きく変えなくても、
「今日は少し早く休む」
「嫌なことを嫌だと認める」
「食べる前に、本当にお腹が空いているか感じてみる」
「したくないことを一つ減らす」
という小さな変更はできます。
病気にならないように恐れながら自分を管理するのではなく、自分の感覚に合うほうへ少しずつ戻っていく。
その積み重ねが、結果として身体への負担を減らしていくのではないでしょうか。
回復力を信じることと、医療を受けること
私は、身体には回復する力があると考えています。
一方で、身体の回復力を信じることと、医療機関で検査や治療を受けることは、反対ではありません。
違和感が続く時に病院で確認することも、身体の声を無視しない行動の一つです。
病気が見つかった時に、手術、薬、放射線治療などの力を借りることもあります。
同時に、これまでの暮らし方を振り返り、休息、食事、人間関係、仕事、心の負担を整えていくこともできます。
どちらか一方だけを正しいとする必要はないと思います。
身体の声が小さいうちに
病気になった人の生き方が間違っていた、と言いたいわけではありません。
病気は一つの原因だけで起こるものでもなく、どれだけ丁寧に暮らしていても避けられないことがあります。
生まれつきの病気や、幼い子どもの病気など、気持ちや生活習慣では説明できないこともあります。
それでも、身体や心が出している小さな違和感を無視せず、自分に合わなくなった生き方を少しずつ変えることはできます。
気持ちが整っていくことで、食事、睡眠、お酒との付き合い方、身体の動かし方、人との関わり方も、無理に正そうとしなくても変わっていくことがあります。
それが必ず病気を防ぐとは言えません。
すでに病気になった人に、治ることを保証するものでもありません。
それでも、身体が回復しやすい方向へ戻る助けにはなるのではないか。私はそう考えています。
父や祖父母の病気について改めて考えたことで、私自身も、
「身体が大きな声を出すまで待たなくてよい」
ということを教えられたように感じました。
病気を恐れるためではなく、今の自分を少し大切にするために。
身体の声がまだ小さいうちに、立ち止まってみることも必要なのだと思います。
※この記事は、病気の原因や治療法を断定するものではありません。気になる症状や違和感が続く場合は、必要に応じて医療機関へご相談ください。
